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(F-4E/74-1644)
↑ 上写真のF-4E/74-1644は、資料を探しても4th TFWに所属していた記録が見つからない。しかし、尾翼のチップを黄色く塗って、他の”SJ”機と編隊を組んで戻ってきているので、レターが無いだけで336th TFSの所属であった事はまず間違いないと考えている。この機体は同航空団の後は、欧州に渡りスパンダーレムの52d TFWで活躍している。
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F-4E  4th TFW / Seymour Johnson AFB
Wings
ノース・カロナイナ州スイモアジョンソン空軍基地を拠点とする第4戦術戦闘航空団(4th TFW)のF-4E。 4th TFWは、インディアンの矢をマークとしている。この部隊 朝鮮戦争で活躍した部隊の1つであり F-86、F-100,F-105等を運用した後 1967年にF-4Dを受領して F-4Eを1970年に受け取っている。F-4Dを使用している時期は、334TFSがテールレターを”SA"、335TFSが”SB”、336TFSが”SC"としていたが 1972年のテールコードの基準変更により”SJ”に統一した。また 1968年の北朝鮮によるアメリカ情報収集艦プエブロ号の拿捕事件に対応し 韓国のクンサン基地に派遣され 横田基地にも多数外来として飛来したそうだ。F-4Dが日本に初めて顔を見せた時である。この1968年の3月から X-1で知られるチャック・イエーガー(当時大佐)が、4TFWの司令になっており 日本にも彼の機体と見られるF-4D(66-7678)が飛来している。この事件の対応に際しては4th TFWのF-4Dは、テールレターをすべて消しており フィンチップの色分けでのみ部隊の識別をしたそうであるが 336TFSは、フィンチップにインディアンの横顔を書いていた。F-4Eは1988年まで18年間使用し 1989年F-15Eの最初の実戦航空団になったのは衆知の事である。  
↑ 機首からコックピットに掛けて黒いラインを延ばした1987年の航空団司令指定機F-4E/73-1169。機体の所属と管理は、334th TFSが行っていた為、同飛行隊のインシグニアが左側に貼られている。この翌年からF-15Eへの更新が始まったので、恐らく最後のF-4E コマンダー指定機。装着しているECM Podは、AN/ALQ-131
1980年の撮影ツアーで最初に遭遇したF-4Eがこの部隊の機体だった。それまでN/J/C/D型は、各地で見られたが、E型は、この時の撮影行では、ネリスでのスイモア.ジョンソンの4th TFWのファントムが初めてだったため、とても新鮮に見えた。日本では、OS/PNと言ったテールレターのF-4Eが撮れていたが数は少なく、私にとってはE型は、1970年代後半まで腹いっぱい撮った事がない憧れのベトナム迷彩ファントムだったのである。実際に1980年にアメリカ本国の戦術空軍(TAC)に所属しているF-4E航空団は、ムーディー空軍基地の347th TFWと、このスイモアジョンソンの4th TFWだけになっていた。
(F-4E/72-0166)
↑ 1980年3月 ネリス空軍基地のレッドフラッグ演習に参加していた4th TFW/336th TFSのF-4E/74-0649。白黒フィルムでの写真の為、色は分かりにくいが、尾翼のフィンチップは、イエローである。
336th TFS "Rocketeers"
↑ 上図と同一機のF-4E/74-1040であるが、ヨーロピアンⅠ迷彩に変更され、スコードロンカラ―ベルトは、胴体中央部からジェットインテーク横に移動している。基本的に尾翼のデザインは変わらない。恐らくこの機体を最後に胴体へのベルトの書き込みが無くなり、後の司令官指定機F-4E/74-0645では尾翼のチップが色分けされるようになった。
Squadron Color =Red
   1982~1985
我々は、4番目の航空団だが、全てにおいて1番である。と言う意味が込められている。
↑ 2枚上の写真と同様、1974年会計予算発注でブロック62にあたるF-4E/74-1643。前後の会計年度で作られたブロック62迄の機体は、米空軍に渡された最後のF-4Eとなり、アメリカ本国ではこの4th TFW か35th TFW 、在欧米空軍では52th TFW/86th TFWに配備される機体が多かった。そしてブロック63以降の機体は、海外向けの輸出が主体となっている。
↑ ネリス空軍基地に着陸するF-4E/72-0160。この機体は、1980年代後半にドイツのスパンダーレムに移動したが、何とスペインでの射撃訓練中にハゲワシと衝突して墜落している。
↑ E型後期生産にあたるブロック60のF-4E/74-1039。1974年度会計発注であるので、ベトナム戦争がほぼ終了しかけたた時期であり、この機体もアメリカ本国の部隊で一生を終えている。
(F-4E/73-1187)
↑ この時代にしては珍しくテールナンバーを4桁で書いていたF-4E/73-1184。恐らく航空団の中で、3桁”184”が存在していたのかもしれないが、識別が出来るように4桁のしたものと思われる。このシリアルナンバー前後の機体も、多くがスイモアジョンソンへ送られていた。
↑ このF-4E/72-0162は、1972年会計年度発注の機体であるが、当機の前後の機体は多くが、ロールアウトして直ぐにスイモアジョンソンに配備されている。この機体もほぼ一生をスイモアジョンソンで送って、最後はミサイルのターゲットに改造されている。
↑ またもテールレターが書かれていないが、当時336th TFSの機体として飛行していたF-4E/66-0297。このファントムは1987年にトルコに売却され、トルコ空軍で運用されていたが、1993年9月25日に墜落事故で失われたと記録されている。
↑ 着陸態勢の336th TFSのF-4E/74-1631。同機もこの後35th TFWに渡り、最後はターゲットドローンQF-4Eとなって生涯を終えている。
↑ 射爆場から帰投した366th TFSのF-4E/66-0356。左翼パイロンのMk-82 爆弾はリリースできなかったようで、付けたまま着陸した。ジェットインテーク下の白いポッドは、AN/ALQ-131電子妨害装置と思われる。一部の機体を除いて殆どの機体が装着していた。この機体は、その後ジョージ空軍基地の35th TFWに渡って、そこで最後の役目を終えた。
1968年に北朝鮮近海で発生したプエブロ号拿捕事件に呼応して、日本の横田基地にも展開した4th TFW/336th TFSのF-4D。尾翼のチップを黄色地に星を散りばめた塗装であったが、横田のマニアは本国からの珍客に歓喜したと言われる。その後もベトナム戦に投入され、ウドン空軍基地をベースに活動していた。1972年には同飛行隊のF-4(操縦 フレッド・シェ-ファー大尉/WSO マーク・マッセン中尉)が北ベトナムのMig-21をスパローミサイルで撃墜している。このような状況から、当時はちょくちょく日本への飛来もあった様である。1970年航空団がスイモアジョンソンへ戻ってからF-4Eに機種交換してる。
(F-4E 1970~1988)
↑ 第4戦術戦闘航空団の司令官指定機、1983年には、337th TFSが加わって4個飛行隊となっていたので、背中に4つのスコードロンカラーが白枠付きで書かれた。それまでの司令官指定機は、F-4E/72-1489のように、尾翼のシリアルナンバーの”4”だけ大文字で白く書かれていたが、この機体から”4”を尾翼一杯に書くようになっている。
Squadron Color =Yellow
Squadron Color =Green
Squadron Colorr =Blue
↑ 4th TFWがF-4Eを使用している時代の飛行隊は、334th TFS/335th TFS/336th TFSの3個飛行隊。3飛行隊共に第二次大戦中のアメリカ陸軍航空隊第8戦闘機司令部時代からのトリオで、F-15Eを使っている現在まで、このトリオは変わらない。リパブリック社のP-47サンダーボルト戦闘機が配備されるまでの間、イギリス製のスピットファイアーMk-Vを使用して、当時のドイツ空軍と戦っていた兵どもである。334th 戦闘機隊だけでドイツ空軍機210機を撃墜したとされる。